バレエ作品の歴史的形式、歴史的人物に関するバレエ用語

「知っていそうで知らなかった。」「今さら恥ずかしくて人に聞けない。」「やるからには知っておきたい!」

そんなバレエに関する言葉を集めてみました。【 著:ひなたようこ 】

ballet terms

作品の歴史的形式、歴史的人物

ルイ14世

1638年〜1715年、フランス国王。イタリアで発生したバレットがカトリーヌ・ド・メディチのお嫁入りと共に、フランスにもたらされ「バレエ」となりました。ルイ14世は宮廷バレエを愛し、国家的芸術にまで高め、王立舞踊アカデミー(現在のパリ・オペラ座)を設立しました。自分自身もダンサーであり、太陽神「アポロン」を演じました。「王は踊る」という映画でその様子が描かれていて、当時の絢爛豪華な宮廷バレエをうかがい知ることができます。

ロマンティック・バレエ

フランス19世紀初頭におけるロマン派文学の台頭に刺激されて生み出されたバレエ作品の総称。「ラ・シルフィード」や「ジゼル」など。非現実世界を夢見て、妖精や精霊などの幻の女性を追い求めるストーリー、遠い異国や中世への憧れなどが描かれます。当時開発されたポアントの技法が用いられ、一大ブームを巻き起こしました。

マリー・タリオーニ

19世紀初頭にイタリア人振付家の父フィリッポ・タリオーニの猛特訓を受け、ポアントで立つ技術を身につけて、パリ、ウィーン、ロシアでデビューしたバレリーナです。当時ではまだ珍しい強力なポアント技で軽やかに空気の精「ラ・シルフィード」を演じ、一大ブームとなるほどの人気を博しました。なで肩で控えめなポーズをとってポアントで立ち、魅力的なまなざしを送るタリオーニを描いた絵画は有名で、バレエファンならばきっと目にしたことがあるでしょう。ロマンティック・バレエの確立の立役者で、ロマンチック・チュチュも当時初めて作られ彼女が着用していました。

クラシックバレエ

広い意味ではダンス・クラシックの技法を用いた踊り全般を指しますが、バレエ史の中では19世紀後半にフランスからロシアに渡ったマリウス・プティパが生み出したバレエの様式のことを指します。クラシックバレエは、コールド・バレエ(群舞)、グラン・パ・ド・ドゥ形式、マイムを使った芝居の場面のセーヌ・ダクシオンを含み、厳格な構成を持っています。プティパが作った「白鳥の湖」や「眠れる森の美女」などが代表的な作品です。この時代から脚さばきがよりよく見えるクラシック・チュチュが着用されるようになりました。とはいえ、当時は脚を見せること自体、革新的であり、現代のチュチュほどは短くはなかったようです。

マリウス・プティパ

1818年〜1910年。フランスのダンサー一家に生まれ、1947年、第一舞踊手としてロシアのサンクトペテルブルグに招かれロシアに渡り、その後1869年、首席メートル・ド・バレエ(首席振付家)となりました。1903年にその地位を辞すまで、生涯につくったバレエ作品は60にもおよびます。バレエのテクニックをより高度なものに推し進め、今日私たちが観ることできるバレエの基礎を生み出した「バレエの父」と言われています。この19世紀後半のロシアバレエの繁栄がなかったら現在のバレエはありません。また、この頃ロシア人バレリーナが活躍するようになり、“バレエならロシア”という風潮の下地ができたのでした。

ピョートル・チャイコフスキー

1840〜1893年、ロシアの天才的作曲家。バレエ史上活躍した作曲家で、完成作品すべてが今日でも高い評価を受け、愚作ゼロ、成功率100パーセントという作曲家はチャイコフスキーだけです。3大バレエ「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」を作曲しています。彼の音楽とのコラボレーションがあってこそプティパのバレエも成功したと言えるでしょう。彼以前の作曲家、ミンクスやプー二のバレエ音楽は単なる踊りの伴奏にすぎず、いつでも代替のきく装飾的なものとして扱われていました。彼自身、書簡において「わたしは音楽を筋立てに引き入れることに努め、舞踊や演劇表現と対応し得るような音楽を作曲するよう努力した」と述べています。チャイコフスキーのバレエ音楽の特色はドラマティックな旋律の美しさと親しみやすさ、こころに響く哀愁、舞踊や演劇表現との調和です。バレエ音楽、さらにはバレエの芸術の質的向上をもたらしたのでした。

セルゲイ・ディアギレフ

1872〜1929年、20世紀初頭の芸術界に多大な影響を及ぼしたバレエ・リュスの主催者、興行主(インプレサリオ)。1909年にバレエ・リュスを結成、パリ公演を開始し、1929年までヨーロッパ各地で公演をしました。バレエ・リュスの作品は舞踊、音楽、舞台美術、物語、振付すべてにおいてアバンギャルドで、停滞していたヨーロッパのバレエに大きな刺激を与えただけでなく、最先端のアートとして時代をリードしたのです。ストラヴィンスキー、コクトー、ピカソ、サティ、シャネルなど当時第一線で活躍した様々なアーティストが参加。さらにニジンスキー、マシーン、バランシンなど伝説的なダンサーや振付家を擁していました。ディアギレフの死後、バレエ・リュスは解散しましたが、その後のバレエ界に多大な影響を及ぼしました。

ニジンスキー

1888〜1950年、ディアギレフのバレエ・リュスに参加していた伝説的な天才ダンサー。「バラの精」という作品の最後、窓の外へ飛び出るという設定の跳躍は、まるで空中で静止していたかのようだと言われ、パリの人々は熱狂しました。「牧神の午後」など当時非常に衝撃的な、現在見ても斬新な作品を振付けましたが、天才と狂気は紙一重、ディアギレフとの同性愛による確執などで苦悩し、若くして精神を病み引退。狂気の世界の中で亡くなったのでした。伝説のダンサーとして、彼自身の人生が映画やバレエ作品の題材となっています。

個人情報の取り扱いについて | 特定商取引法に関する表示

Copyright(c) バレエ用品・レオタードの通販エスメリア ESMELLIA. All Rights Reserved.